家康も認めていた石田三成の「忠義」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第33回
■秀吉の意向を第一とする三成の「忠義」
三成は秀吉の意向を叶えるよう尽力する一方で、苦労することも多かったようです。一例として、三成の指揮官としての評価を下げることになった小田原征伐のおける忍城(おしじょう)の戦いでの水攻めがあります。
一般的には、三成の主導の元で成田家が籠(こも)る忍城へ水攻めを強行し、味方に大損害を与えたとされています。しかし実際は、通常の城攻めを提案したものの却下され、秀吉からの水攻めの命令に従った結果の失敗でした。
またサンフェリペ号事件の後、京都所司代を務める三成に対して、秀吉から京にいるキリスト教徒の捕縛処刑の指示が降ります。三成の尽力により、高山右近(たかやまうこん)を救う事ができたものの、最終的には宣教師を含む26名を処刑することになります。
この時、秀吉の命令には処刑の前に耳と鼻を削ぐ内容が含まれていましたが、三成は片方の耳たぶを切り落とすだけで済ませるように取り計らっています。
このように、三成は被害を最小限に抑える努力をしつつも秀吉の意思を優先しています。しかし、この三成の「忠義」が政権を揺るがす対立へと発展させる一因となります。
■秀吉の遺言を守る三成
秀吉は死後の体制として、呼び方には異説あるものの家康や前田利家(まえだとしいえ)、毛利輝元(もうりてるもと)たち五人の有力大名と、三成や増田長盛(ましたながもり)たち五人の官僚による合議制によって豊臣秀頼(ひでより)を支えていくよう遺言します。
当初、三成と家康は対立するのではなく、お互い協調しながら豊臣政権を運営しようと努めていました。
しかし、家康(いえやす)が秀吉によって禁じられていた大名間の私婚を行うと、三成は利家や輝元たちと共に規律違反であると弾劾します。この対立は解消されますが、家康と利家の元にそれぞれの派閥の諸将が参集するほどにまで一時的に関係が悪化します。
その後、慶長の役での恩賞や処罰について、黒田長政(くろだながまさ)たちの訴えを、秀吉の意思によるもので変える必要がないと拒否した事で、三成襲撃事件を招きます。三成は家康の調停により命は助かったものの、佐和山へ蟄居することになり政権中枢から失脚することになります。
政治体制の安定のために奉行職を辞したものの、結果的には家康への権力集中が進みました。
三成は上杉討伐を計画する家康に対して「内府ちかひの条々」で秀吉の意向を破っていると痛烈に批判し、昵懇(じっこん)の諸侯を集めて挙兵します。三成が守ろうとした体制はたった2年で完全に崩壊してしまいます。
■江戸時代の武士道に通ずる「忠義」
三成は秀吉の遺言に込められた意思を尊重するため、身命を賭して「忠義」を尽くします。この姿勢は江戸時代に形成された武士道に通じるものがあります。
捕縛された三成の毅然とした態度を目にした家康は「さすがに大将の器である、平宗盛とは大きく違う」と称したと言われています。水戸黄門として有名な徳川光圀も、三成を「忠臣」と称しています。
しかし、三成の行動が結果的に豊臣政権の崩壊を早めてしまった面もあったと思われます。
現代でも、創業者の意思を守るために尽力したことが却って派閥争いを強め混乱を招き、創業家の発言力を低下させてしまう事があります。
もし三成が家康を中心とした体制構築に協力していれば、豊臣家の結末も違ったものになっていたのかもしれません。
ちなみに三成の子息たちは家康の意向により助命されており、家康からも三成の行動は一定の評価と理解をされていたとも言われています。また、三成の曾孫にあたるお振(ふ)りの方は三代将軍家光(いえみつ)の側室となり千代姫を生み、三成の血筋は尾張徳川家へと繋がり、現代にまで引き継がれています。
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